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命の価格

カメ

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上の記事を見て、私とペットの思い出や、ペットの命の価値について考えたことを話していきたいと思います。

わたしたちの生活に欠かせないもののひとつとなっているペットは、1980年代後半から90年代初頭にかけてブームが起きました。

これを第1次ペットブームといいますが、その火付け役になったのはラブラドールレトリバーだったそうです。

 

そうしたブームは去ったものの、コロナ禍においてペットを飼い始めた人がぐんと増え、ペット業界の特需が起こりました。

ペット市場の大半を占めるのは犬や猫になりますが、爬虫類や猛禽類や昆虫などこれまで市場に出回らなかったような生き物を飼う人も出現してきており、ペット業界の多様化が進んでいます。

 

私が子供の頃、飼い犬が死んでしまって、ペット霊園に出向いたことがあります。
生まれてからいつも一緒にいた犬だったので、単にペットというより家族のひとりとして扱っていました。だけど葬儀にあたっては、やっぱり人間とは扱いが全く違うのだなあと思い知りました。 

それは大勢の参列者がきていた、厳粛な祖父のお葬式を経験したことがあったからだと思います。 僧侶は遺族の気持ちを故人に代弁する橋渡しの役割であり、それにふさわしい方でした。また参列者はみなさん厳かで、一つの命が消えた悲しみを芯から惜しんでいるように感じました。

一方犬は、供養のためペット霊園の住職がお経をあげてくれたのですが、なんだか軽んじている雰囲気があって、こっちがシクシクと悲しんで泣いたりするのを、少し嘲笑っているように感じてしまい、やっつけ仕事のように雑な感じを受けました。

そして、火葬のあと、小型犬だったので小さい骨壷に入って戻ってきました。それはまるでお遊びの、おままごとみたいだと感じました。 

おかげで、あまり死の実感がわかず、ペットロスという言葉の意味を身をもって知ることになるまでには、私はずいぶん時間がかかってしまいました。 

  

もう少しペットとの別れの話をすると、私が本当に悲しかったのは、犬や猫ではなく、ペットのカメの死でした。 それこそ、カメなどの爬虫類は表情もなく、決して慣れることはない、いわゆる冷血な生き物です。けれど、私にとってはそのどうしようもないくらい愛しい存在で、丁度必要な距離感に生命体が存在することが、たまらなく安心できるつながりを作っていたからです。 

そのカメとの関係は、人と人の間ではつくることができない、特別な引力が発生していてたのだと思います。カメが死んでしまったとき、私はそのバランスで生きてこれたことを実感しました。
 
そうして初めて、自分が思っていた以上にずっとずっとカメのことが好きで、私には大事な存在だったことに気づきました。あれだけたくさんいたペットたちの中で、最後まで面倒を見ることができたのはたった一匹だけだったけど、そのたった一匹だからこそ、それはもう絶対に言葉では言い表せないような、不思議な命と命の約束みたいなものがあって、それこそちゃんと供養してあげたいと強く思いました。

それでペットの火葬業者に聞いてみたところ、カメ火葬を執り行っているところがありました。その時はもう住職のことも気にならずただただお別れを悲しんでいたのです。

 

だから、今の子どもたちが昆虫の死にたいしても、ちゃんと供養してあげたいという気持ちが私にはよく分かります。命は大きさではなく関係性で測ることを。

ただ、小さなカメと大きなカメと供養の費用が異なっていたように、記事の中でも無料~1万円という大きな金額の差がうまれてしまうところに注目したいと思います。 

それは要するに命の値段は、命の価値は需要と供給によって決まるということです。 

これは、例えば車やバイクや掃除機や冷蔵庫などの機械類だって寿命があるので、同じことが言えるかもしれません。しかし機械類は分解できて、部分ごと再利用できるところがあるのでお金にも換算させやすいものです。だからバイクなどは動かなくなっても買取の見積もりも簡単にできてしまいます。 

バイク買取バイクワン

 

これはとても大切なことで、子どもに限らず大人でも同じように言えることですが、血を分けた者ではなく、お金を払って購入したり、取得したモノやサービスに対しても、ありがとうという感謝の気持ちを忘れてはいけないということだと思うのです。もしそれを忘れたら、供養という行為自体が単に金銭的価値になってしまうと考えるからです。つまり、この世に存在しているだけで、命の価値は生まれているということになる。ものが死に至るかどうかは、関わったその人が生殺与奪権を握ってしまうことになるだ。

だからこそ、どんなものでもきちんと対価を払うべきだし、払うことを放棄していいものはないはず。そこでお金はもちろんのこと、時間や労力なども含めて換算し、その命と死の価値を定めなければならないと思いました。